「マグロを餌に。」 菊田 薫 さん (山梨県在住 学生)

 我が家の晩の食卓には必ずマグロの刺身が出ます。しかも和風、洋風、中華を問わず、

必ずマグロの刺身は我が家の食卓に顔を出すのです。そのマグロの刺身が置かれる場所に

は定位置があります。必ず私たち兄弟の前に並べられているのです。幼い頃からそんな食

卓に慣れていたので、晩御飯のおかずにマグロの刺身が並ぶことを当然のように受け入れ

ていました。そして、私たち兄弟が「ごちそうさま」をすると、父は必ず「お刺身もう1

つ食べなよ」と言うのです。その一言のせいで、私の食後の口の中にはマグロの刺身の味

がいつも残っていました。

 私は大学に合格し1人暮らしをすることになりました。母からご飯だけはしっかり食べ

るように何度も念を押されました。その話を繰り返し聞いていた時、私は「父さんの好き

な食べ物って何?」と母に聞きました。母は少し悩んで「マグロの刺身じゃない」と答え

ました。その時、私は初めて晩ご飯にいつもマグロの刺身が出ていた理由がわかったので

す。「父さんは自分の好物を自分の子どもにたくさん食べさせていたんだ」そう思うと、

なんだか父が私たちにマグロの刺身を勧めていたのがわかるような気がしてきました。で

も「自分の息子に自分の好物を食べさせるなんて」と笑ってしまいました。

 1人暮らしの食生活はなんとか順調です。マグロの刺身はあまり食べませんが、大学の

近くのスーパーで見かけると我が家の食卓を思い出します。母とのメールのやりとりで晩

ご飯の内容を聞くと、未だにマグロの刺身が顔を出しているようです。父は食べさせる相

手がいなくなったマグロの刺身をどんな気分で食べているのか、とても気になります。も

しかしたら、私たちのいない食卓に少し淋しさを感じながらマグロの刺身を食べているの

ではないか、と思っています。父の口から直接には絶対そんな言葉は聞けないと思います

が。・・・マグロの刺身を食べながら聞いてみようかな(笑)。